もう誰も、信頼など出来ないと思った。
辛くて悔しくて許せなくて、哀しかった。
尊敬者は自分を裏切り、貶めた。
だから僕は、故郷を永久に捨てた・・・。
春、大学に通い始めた。
幸い両親の遺産も残っていたし、下宿先も何とか見つけることが出来た。
日清戦争で旦那さんを亡くしてしまった奥さんは、一家の用心棒も兼ねてのつもりで、僕を同居させてくれたんだと思う。
それでもよかった。いや、寧ろそうする事が僕の使命の様に感じていた。
寝る場所や食事だけでなく、人間不信に近いものを抱え込んでいた僕の心を、この家は癒してくれたのだから。
快活でしっかりした奥さんと、優しく温かいお嬢さん。
勉強ばかりしている僕の腕っ節はお世辞でも強いとは云えないが、二人の為なら何にでも立ち向かってゆける。
それくらい、僕はこの一家に助けられていた。
そう、特に。
「おはようございます、剛さん」
茶の間へ足を踏み入れた僕に声を掛けてくれたのは、お嬢さんの雪乃さんだった。
お嬢さんに抱く想いで、次第に頬が熱くなってくるのが解る。
それでも僕は普段と同じよう、気付かれないよう、目尻を下げて声を返す。
何時からだろう、と思う。自覚したのは最近だけれど、もっとずっと前から、お嬢さんの事をそういう風に想っていたんだろう。
そう、お嬢さんの為なら命も張れる。汚してはいけない、僕の中で最も尊い存在なのだから。
彼女に、僕は『信仰にも近い愛』を抱いているんだ。
久しぶりに会った幼なじみに、僕は目も当てられなかった。
余りに酷すぎて、こっちが苦しくなってくる。
「・・・・光一、大丈夫なのか?もう帰った方が良いんじゃないか?」
フラフラする体を支えてやりながら、彼の目を覗き込む。隈が酷く、瞳孔は濁っているように見えた。
それでも彼は明らかに無理矢理と見て取れる笑みを浮かべ、大丈夫だと低く呻く。
どうやら、彼の意志に任せている場合ではなさそうだ。
「光一、今日は帰って寝た方が良い。仕事は入れてないんだろう?どうせまた『道』の為の精進だ、とか思っているんだろうけど、死んでしまったら元も子もないじゃないか」
そう彼を言いくるめて、僕は何とか光一を帰らせることに成功した。
見送りまでしてやれなかったのが気懸かりだが、近場なので大丈夫だろう。
光一は寺の次男として生まれ、医者の家に養子として入っていた。
勿論、養親としては医者の道を目指して欲しいと思うのは至極もっともな事である。
だけれど彼は別の道に進むことを選んだ。僕もそれには賛成だった・・・・のだけれど、養家に背いたとして離籍され、遂には実家からも勘当されてしまったのだ。
光一は独力で生きようと努力している。だけれどさっきの彼を見て解るように、過労の上、最近は不眠や頭痛がひどいらしく大分参っているみたいだ。
幼なじみとして、これは放っておける事態じゃない。これ以上続いたら、本当に彼は死んでしまうかもしれない。
帰り道、僕はどうしたらいいか途方に暮れ、のそのそと歩いていた。
だけど、ふと辿り着いた閃きに、息を切らせて足を運んでいたんだ。そう、思い立ったが吉日だ。
「いらっしゃい、光一さん。剛さんから話は聞いてるわ。大変だったのね、今まで。こんな所で良かったら、ゆっくりしてね」
僕に連れられてやって来た光一を、奥さんとお嬢さんは温かく迎え入れてくれた。
「娘の雪乃です。これから宜しくお願いします、光一さん」
優しい笑顔というのに暫く免疫の無かった光一は、しどろもどろに一瞬たじろぐ。
日頃から無口な彼は、困惑顔を見られないようしっかりと腰を折り、
「お世話になります」
と、口の中で呟いた。
光一と別れたすぐ後、僕は家に急ぎ付いて奥さんに頼み込んだことがあった。
つまりそれは、光一も一緒に下宿させてくれないか、という事だ。
もし反対されても食い下がってでも説得させる思いで僕は話を切り出したのだけど、それは杞憂だった。
光一の身の上を話し終わった途端、奥さんの方から、連れてきなさいな、という言葉をくれたのだ。
僕は本当に嬉しくて、何度も何度も感謝の言葉を口にした。そしてすぐさま、光一に話を持ち掛けた。
否、もうこれは決定事項なのだと、次の週には越してくるように、僕は連絡を入れて置いたのだ。
そして今日、彼はこの家にやってきた。これで心配することはない。
全て上手くいく。
・・・・・・そう思っていたのに。
僕は夏休みに入ると、乗り気でない光一を連れて房州へ旅行に行くことにした。
あの家では出来ない事があるから、それをこの旅行中に実行させる為にずっと様子を窺っていた。
正直な話、光一が来て以来、僕の心は安まることがない。
自分でやっておいて自分勝手だと思うけれど、それでも思わずにはいられなかった。
光一がお嬢さんと親しくしているのは許せなかった。無性に苛々して、憂鬱で、心も体も痛かった。
それが嫉妬などというくだらない感情であることは、すぐに解った。
でも今の僕にとって、それが何よりも重大で恐ろしい感情であるかも、日を追う毎に膨らんでいった。
僕は少しでも光一とお嬢さんを引き離したくて、そして光一に僕のお嬢さんへ対する想いを打ち明けること、それがこの旅行の最終的な目的だった。
前者は光一を連れ出せた事で上手くいったことは明らかだったけれど、後者はそう簡単にはいかない。
タイミングが掴めないし、今だと思ってもなかなか声にすることが出来ない。
何故こんなに躊躇うのだろう。『お嬢さんが好きだ』、たったこれだけの事なのに。
「誕生寺・・・・か。1276年、日保が日蓮の誕生地に創建したものだったか」
ふっと呟いた光一の声に、現実へと引き戻される。
気が付くと、すぐ目の前にその寺が聳(そび)えていた。
何時の間に此処へ来たのか、その間の記憶が殆どなかった。それ程までにまた嫉妬心に駆られていたのだろうか。
厭だとばかりに溜息を吐いて、近くの休憩所へと足を運ぶ。
様子を窺うのに気を張っていたからか、それともただの旅疲れか・・・・定かではない倦怠感にぐったりしながら、ようやく腰を落ち着かせると、光一が訝しげに僕を覗き込んでいる事に気が付いた。
何だろうと同じように見つめ返すと、はぁ〜と盛大な溜息を洩らす。
「やっぱり聞いていなかったのか?まさかとは思ったが・・・・」
失礼な奴だ、とでも言いたいような口振りに、半ばむっとして僕は気怠げに返していた。
「・・・・・あぁ、ごめん。疲れてしまっているんだ、今は放って置いてくれないか・・・?」
どうせ彼が言うことなど、いつも道だとか精進だとか、その類のものなのだ。
僕が聞いた所でどうする事も出来ない。僕にはそういう『道』などいらないのだから。
「疲れる?こんな事でか?誘っておいてそれはないだろう。お前は弱いんだろうな、肉体的にも精神的にも。精神的に向上心のない者は莫迦だ」
同情とも侮蔑とも取れる声音を練り込めながら、光一はそう呟いた。
僕に直接言うつもりはなかったんだろう。僕の方を見てはいなかったから。
だけどそれは、今生ずっと残り続ける言葉となった。
そうして、僕は光一に何も言えないまま、光一の気持ちも確かめられないまま、僕と彼の最後の旅は終わりを告げた。
そうこうしている内に年が改まったある日、奥さんとお嬢さんは親戚の家へと出かけていった。
静かになったこの家で、僕は久しぶりに心を落ち着かせて休んでいる。
それでも体の何処かに、冷酷な嫉妬の炎が静寂に燃え上がっているのを感じる。
もうそれは、体の一部となり果てていた。
自嘲なのかただ単に面白いのかなんて解らないけれど、僕は小さな笑みを浮かべながら書見などして過ごしていた。
不意に背にしていた襖が開き、光一が顔を覗かせた。
僕の静寂は、その時にガラガラと音を立てて壊れてしまったらしい。
「・・・・・何かな?」
半ば冷ややかな口調で問えば、光一は無言で襖を閉めて床にどっかりと胡座をかいた。
僕はそのまま本を開いたままだったけれど、何時もと様子の違う光一が気になって耳をそばだてていた。
しかり幾ら経ってもそのまま無言でいる光一に苛々が募って、僕はわざと大きな音を立てて本を閉じたんだ。
ずっと火鉢を見つめていた光一は、ピクッと怯えにも似た震えを起こす。
僕は苛々に乗じて、先にお嬢さんが光一と談笑していたことや、僕の部屋だけ火種も尽きていたこと、あまつさえお嬢さんの光一への訪問が頻繁になっていくことを思い出していた。
何故、光一なんだ?どうして僕じゃない?
光一よりもずっと前から此処にいるのに、想ってだっているのに。
僕にはドロドロした悪辣(あくらつ)な感情が体中に溢れているのを知った。でもそんなものは表には出さない。
僕の自尊心がそれを許さない。何もかも上手くいくように、僕は自分の内でそれを鉄の布にくるんでいく。
漏れないように頑丈に、出したい時にはすぐに手に取れるように。
「何かな?」
問いつめるように、僕はもう一度繰り返す。
ようやっと光一は目線を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「俺・・・・・お嬢さんのことが、好きなのかもしれない」
「・・・・・・・・・・・なに?」
一瞬間にして真っ白に塗り上げられた僕の思考は、唯一警鐘だけは鳴らしていた。
そうして悟ったんだ。
僕らはもう、戻れない。