学校が始まった。
光一はあれ以来何も言わず、僕もまた何も言わなかった。
ふとしたある日、僕は図書室で調べ物をしていたのだけれど、一心に資料を読んでいた机の向こうから、僕を呼ぶ声がした。
目線を上げた先には案の定光一がいて、彼は腰を屈めて僕に顔を近づけた。
「剛、勉強か?」
「いや、調べ物だよ。どうした?」
「・・・・・・・・・一緒に、散歩をしないか?」
「あぁ・・・・うん、君が待っていてくれるなら別に構わないけれど・・・・」
「そうか」
低い小さな声を交わした後、光一は僕のすぐ前の席に腰を下ろした。
資料を読み直そうと文面に目を走らせるのだけど、僕は気が散って先程のようにはいかなくなっていた。
悪態を付きたくなるのを押さえて立ち上がると、光一はもう終わったのかと口の形を作る。
「もういいんだ。行こう」
バサッと荷をまとめると、感情のない笑みを浮かべて光一を促した。
何をするでもなく僕らは歩き続け、上野の公園へ入っていった。
そこで光一は突然、
「お前は、どう思う?」
と、口火を切った。その時の僕でなかったら、彼は何を聞いてきたのか解らなかったと思う。
だけど『その事』について無いくらいに敏感になっていた僕は、瞬時に思考を巡らせた。
鉄の布をゆっくりと剥いでいく。
「どう思うって・・・・・・それは君が決めることだろう?僕の言うことは必要ないじゃないか」
「・・・・自分が弱い人間であるのが解るんだ。それが何よりも恥ずかしい。
そうして迷っている内に自分が解らなくなった。だからお前の意見が仰ぎたいんだ」
無口ではあっても彼の声には力強さがあった。
でも今の彼は何時にも似ずに抑揚が無く、そこから彼が相当迷っているのが垣間見えた。
しかし、そこで僕はふと疑問に思ったことがある。
「迷う・・・・というのはどういう意味なんだ?何を悩んでいる?」
「進めばいいのか、それとも退いた方が良いのか、俺には決められない」
彼の口を吐いて出たこの言葉に、僕は瞳を眇めて間髪入れずに突っ込んだ。
「退こうと思えば、君は何時でも退けるのか?そんな簡単に?」
初め意外そうな顔をした光一は、すぐに眉根を顰めて唇を噛む。
「苦しいんだ・・・・・」
喘ぐように声を漏らした光一は、確かに苦しそうだった。
相手がお嬢さんでなかったら・・・僕は彼を奮え立たせていただろう。
例えそれが『道』に背くことになっても、笑みを浮かべて背中を押していた筈だ。
だけどその時の僕は、違った。
光一は僕の本音を知らないから。僕を信用してくれているから。
彼は全てを僕の眼前にさらけ出していた。
そんな彼を僕はゆっくりと眺め渡して、彼の虚を見つけた。
僕はそこに付け入って、更に穴を広げるように、それで彼が倒れるように、僕は言葉を突き刺した。
絶好のチャンスだと思ったんだ。僕は本気で、彼を打ち倒そうと考えていた。
それも一撃で、どんなに卑怯な手を使ってでも。
「精神的に向上心のない者は、莫迦だ」
僕は静かな口調で、だけど重たくはっきりと、この言葉を光一にねじ込んだ。
この一言だけで良いと思った。
光一が恋という道に進むことを遮るなら、これが一番痛いと言うことをはっきりと理解した上で、彼が口にした通りに返したんだ。
確かに、光一に対して憎悪を感じなかったと言えば嘘になる。嫉妬の以上の気持ちもあった。
だけど僕は、この言葉で光一を陥れようだとか蹴散らそうだとかは思っていない。
あくまでも、僕ら二人が恋敵として衝突する前に彼を諦めさせようと打ち倒すだけで、彼の今までの生き方を砕こうとした訳じゃない。
寧ろ、彼には今まで通りに積み重ねていって欲しかった。
「・・・・・精神的に、向上心のない者は、莫迦だ」
二度、僕は繰り返した。
噛み砕くように、ゆっくりと。
「・・・・・・莫迦・・・・・・だ・・・・・・・・俺は莫迦だ・・・・・・・・・・」
ポソリと呟いて立ち止まった光一は、虚ろな目を僕に向けた。
その目を見返しながら、様々な考えが駆け巡っていく。
もしかしたら立ち上がってくるかもしれない彼を、次はどうやって倒そうか、と。
「剛・・・・・・・・俺は・・・・・・」
再び苦しそうに口を開いた彼だが、二の句が続くことはなかった。
その代わりに、
「その話はやめよう」
と打ち切りの決断を下したんだ。
彼は歩を進めながら僕を通り過ぎ、その時にもう一度、哀願のように『やめてくれ』と口にした。
何故だか僕は急に怒りが沸き上がり、意地を張るように彼の背中に本心を浴びせかける。
「やめてくれって、僕が言い出した事じゃない。元々は光一の方から持ち出した話だろう?それでも君がやめたいというなら別に構わない、でも口の先でやめたって仕方ないじゃないか。光一の心でそれをやめるだけの覚悟がなければね。
光一は平生の主張をどうするつもりなんだ?」
瞬間、彼の体はビクンと萎縮した。力が抜けたように腕が垂れ下がる。
彼はとても素直な性分だったから、自分の矛盾などを非難されると平気でいられない質だった。
だからその様子を見て、僕はようやく安心したんだ。
これで上手くいく、と。
安堵の溜息を洩らしかけた僕に、彼は突然、
「覚悟?」
と聞き返した。僕はいきなりのことに目を瞬かせてしまって、何を答えることもできなかったのだけれど、それよりも先に光一は声を漏らした。
「覚悟------- 覚悟ならないこともない」
そう言った彼の声はひどく落ち着いていて、独り言のようだった。
僕は胸の中でその言葉に盛大に喜んだけれど、少しだけ、彼のことが気になっていた。
あの声は、何故だか無性に夢の中でのようだったから。
散歩を終えた僕らは早々に家に帰り、夕飯を終わらせた。
早めに帰る努力をした僕らだったけど、それでもいつもより遅くなってしまって奥さんやお嬢さんにいろいろと尋ねられてしまった。
光一はそれに終始無言の状態で、僕は当たり障りの無いようにはぐらかしておいた。
光一を恋について打ち倒すことに成功した僕には、その日は安静な夜だった。
掻き込むように飯を終った光一を追いかけて、僕はわざと部屋へ上がり込み、取り留めもない話をし向けた。
そうすることで、僕は彼に勝った優越感に浸ることが出来たんだ。
迷惑そうな彼に対して、僕の目は勝利に輝いて得意の響きの入った声をしていた筈だ。
暫くそうしていて自室に戻った僕は、程なくして静かな眠りに堕ちた。
「剛・・・・・・・」
卒然、はっきりとした声が耳に届いた。
薄い瞼を通って入る光に目を瞬くと、部屋の唯一の仕切である襖が、ほんの少しだけ開いていた。
まだ夢心地だった僕は、ぼぅっとしたままそこを見つめた。
「もう寝たのか?」
「ん・・・・何か用?」
上半身を少し起こして、影になっている光一を見上げる。
自室の光を背にしている彼の顔は、暗くて殆ど見えない。
「いや・・・・少し気になってな。起こしてしまって悪かった。じゃあ・・・・・」
ピタリと襖を立て切られ、僕の部屋にはすぐまた暗闇が訪れる。
僕は耳に普段より落ち着いていたくらいの彼の声が残っているのを感じながら、再び目を閉じた。
翌朝になって、昨夜のことがとても不思議だった。全部、夢だったんじゃないかと首を捻らずにいられない。
「光一、君は昨日僕の部屋を覗いたかな?」
「・・・・・・・ああ、確かに、お前の名を呼んだが」
彼を見つけて開口一番、そんなことを聞いていた。
「何故そんな事を?夢だったのかと思ったのだけれど」
「いや、特に理由は・・・・・だから、気になっただけだと言った。それより、お前、最近よく眠れているか?」
「え?うん、まぁ、程々に」
「そうか・・・・・」
いきなり何を言い出すのか、僕は昨日からの彼を妙に感じ始めていた。
一緒に家を出るときになって、僕は思い切って、お嬢さんに対しての事について何か言うつもりでいたんじゃいか、と念を押してみた。
「違うっ。そんな事は毛頭思っていない!」
吐き捨てるように強く言った彼の声音には、昨日『その話はやめよう』と言ったではないか、という注意が込められているようだった。
僕は光一の一般も例外もしっかり理解しているつもりだった。
だけれど、ふと彼の言った『覚悟』という言葉をもう一度眺め返してしてみて、身震いした。
もしかしたら、僕が思っていた光一の『例外』は『一般』になり得るのではないか、と・・・・。
僕はてっきり、恋を諦めて道へ進む『覚悟』だと思っていたけれど、道を諦めて今まで積み重ねてきた過去を捨てる『覚悟』で恋に進む、という意味で光一は言ったのでは?
一度そう思ってしまうと、他の可能性は思い浮かばなかった。
光一がまた違った『覚悟』を胸の内に打ち立てていようと、僕にはそこまで考えつかなかったんだ。
だから僕は、僕の為だけに上手くいく最後の手段を、遂に実行してしまった。
光一よりも先に、そして光一の知らない内に、僕は事を運ぼうとした。
お嬢さんにも知られたくなかった。
どちらもいない機会を窺っていたけれど、二日経っても三日経ってもそのチャンスは訪れなかった。
痺れを切らした僕は、実力行使に出たんだ。そう、仮病というこの上なく卑怯な手を使って。
奥さんとお嬢さんと光一、彼らの起床の催促をことごとく無視して、家の中が静かになるのをじっくりと待った。
もう良いかと思ってから更に三十分待つという慎重さで、ようやく起き出して茶の間へと向かった。
僕の顔を見て、奥さんはもう少し眠ったらどうだと言ってくれたけど、そんな暇はない。
何時、何処で何があるか解らないのだ。この機を逃したら後はないかもしれない。
取り敢えず僕は遅い朝食をとって、そして煙草を手に取った。
緊張を和らげるため、話を切り出すための気休めだ。
「・・・・・・あの、何か特別な用事でもあるんですか?」
震える手で灰皿へ擦り付けながら、どうにか平静を装って声にする。
「いいえ?特にないけれど、どうかしたの?」
「ちょっと・・・・・お話ししたいことがありまして」
「あら・・・もしかして、その為に今まで?」
簡単に見透かされてしまい、僕は少しだけ俯いた。
「別に良いのよ。それで、何でしょうか?」
奥さんの口調や調子は、今の僕とは相容れないものだった。
それに少しだけ戸惑って、舌に乗せた言葉を一度飲み込む。
「光一は、最近何か言ってませんでしたか・・・・・?」
それでもどうにか口にした言葉に、奥さんは目を丸くして逆に聞いた。
「何を?」
「いえ、えぇっと、その・・・・」
「貴方には何か言ったの?」
「いいえ、何もっ」
光一が僕に打ち明けたことは言いたくなかったから、僕はついそう言ってしまった。
そうして言ってすぐ後に、僕は本当に焦った。これではあまりにも不振すぎる。
「いえ、別に何かを頼まれているとかそう言った訳でも、光一のことでもないんです。今のは本当になんでもないんですっ」
「そう・・・?」
よく解らないといった風で、それでも僕の言葉を待っている。
僕はどうしようもなくなって、本当のことを切り出さなくていけなくなったんだ。
「奥さん、お嬢さんをください!」
居住まいを正して口火を切った僕の声に、奥さんは思ったほどの驚きを見せなかったけれど・・・
それでもすぐには声が出せなかったみたいだ。
きょとんとした顔で僕を見つめている。どんなに顔を見られても、一度言ってしまった事は、もう取り消しはきかない。
「ください、是非くださいっ」
僕は何度も繰り返した。了承を貰うまでやめなかった。
「僕の・・・いえ、私の妻として是非くださいっ!」
興奮に近い声で言い募る僕とは違って、年を取っているだけに奥さんはずっと落ち着いていた。
「あげてもいいけれど、あんまり急じゃありませんか?」
心持ち笑いの含んだ声でそう言うので、つい、
「急にもらいたいんですっ」
と言ってしまうと、奥さんは声を上げて笑った。
僕は真剣だというのに、あんまりではないか。
「それは、よく考えてのこと?」
僕の内情を知ってか知らずか、奥さんは念を押す。
口にしたのが急だからといって、僕はそこまで浅はかじゃあない。
「勿論です。奥さんにとっては急かもしれませんが、僕はずっと考えていたんですっ。
昨日や今日思いついたような事じゃありません!」
そう強い口調で言い切ってしまった後、少しばかり失礼だったかと顔色を窺ったけれど、どうやら奥さんは僕の熱意として取ってくれたみたいだ。
穏和、とはまた違ったはきはきした明るい笑顔を浮かべて、
「よござんす。差し上げましょう」
心持ちよく言いきってくれた。しかも、それだけではなかった。
「差し上げるなんて威張った口の利ける境遇じゃあありません。どうぞ貰ってくださいな。ご存じの通り、父親のいない哀れな子です」
後では、向こうから頼んだんだ。
あまりの簡単さに、少し拍子抜けした気分だった。
話し始めてから十五分も経っていないだろう。
奥さんは親類に相談することも本人に了承を得ることもせずに決めてしまったので、こちらの方が心配してしまったくらいだ。
だけれど奥さん曰く、「私が本人の不承知のところへあの子をやるはずがありませんから」と言うことだった。
僕の方も心配はしたけれど、これで自分の未来は定められたのだとした事実が、僕の全てを変えたようだった。
奥さんはお嬢さんが稽古から帰ってきたら、すぐにでもこの話をしようと言ってくれた。
その方が良いと返したのだけれど、その場面に遭遇するにはどうしても落ち着かなくて、とうとう表へと出た。
坂を下りた所でお嬢さんとぱったり行き会い、僕が仮病だと知らない彼女は、目を白黒させて僕を見ている。
「今お帰りなんですか?」
「はい。剛さんは、もう病気は良いんですか?」
不思議そうに尋ねるお嬢さんに、僕は、
「ええ、癒りました。癒りました」
と繰り返して、振り切るように歩を進めた。
小川町を歩きながら、僕は絶えず家のことを考えていた。
あの時の奥さんの記憶とお嬢さんが家に帰ってからの想像が、頭をもたげて離れない。
歪(いびつ)な円を描くように延々街を彷徨い、今頃奥さんはあの話をしているだろうか、もう終わったのだろうかと、想いを馳せていた。
その間中、僕は光一のことを全く考えなかったんだ。
いや、光一のこと自体を忘れていた、と言った方が正しかったのかもしれない。
「病気はもう良いのか?病院へでも行ったのか」
僕の受けた衝撃は決して弱くなかった。
多分ぼんやりしていただろう僕は、座敷へ通る彼の部屋を抜けようとして、そこでようやく光一を意識した。
いつもの通り今帰ったのかと聞いていてくれれば、僕の光一に対する良心は沸き上がらなかったに違いない。
僕は其処まで堕ちていた。光一に敬意を払うことを忘れ、卑怯な手で陥れ、僕のエゴを第一に考えるまでに。
だけれど、心の隅の方に残っていた小指の先程のそれを、光一はその素直なまでの優しさで引き出してくれた。
本気で謝ろうと思った。両手をついて、今までにしてきた事全部、洗いざらい吐き出したかった。
けれど僕の自尊心は、奥に人がいる、たったそれだけの事にその行為を許さなかったんだ。
そうして、永久に復活しなかった。
それから一週間ほど、僕は一歩も踏み出せずにいた。
光一に対してどんな態度を取ればいいのか、それが僕の足を留めていた。
彼には申し訳ないという気持ちがあって、何とかしなければならないという思いがいろいろな弁護をこさえたけれど、どれも光一と面と向かうことは出来ないものだった。
奥さんの言動も油断できない。何時光一にすっぱ抜かれるか、そればっかりに目を光らせていた。
そんな足踏みさえ危うい状態の僕に、ある時奥さんが
「光一さんには、もうお話になったの?」
と声を掛けた。
僕がバツが悪そうに否の返答をすると、眉根を寄せて詰問する。
「あら、どうして?こんなにお目出度い事なのに、何故話さないの?」
この問いの前に固まった僕は、奥さんの次の句に叩き壊されたんだ。
「どうりで私が話したら変な顔をしてましたよ。貴方も良くないじゃないの。
平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙っているなんて」
光一はこの最後の打撃を、最も落ち着いた驚きをもって迎えたらしかった。
僕らに対して、初めはそうですかと一つ呟いただけだったそうだ。
だけれど奥さんが、喜んであげて欲しいというような事を述べた時、
「おめでとうございます」
と微笑を湛えて口にし、席を立った。
それでも一度振り返り、結婚は何時かと尋ねたそうだ。
「何かお祝いをあげたいのですが、自分は金がないので出来ないんです。気持ちだけでも、伝えていただけませんか」
光一が言ったそのままを、奥さんは僕に伝えてくれた。
おそらく、偽りのない彼の本心を。
奥さんの話からすると、光一にその話をしてからもう二日余りになる。
その間僕は、全くそれに気付かなかったのだ。
光一は、以前とは異なる態度を少しも見せなかった。
例えそれが外見だけだったにしろ、敬服に値すべき事だと思った。
僕と光一を並べてみると、彼の方が遙かに立派な人間だったのだ。
それ以前に、僕は人としての道を踏み誤った愚か者なのだ。彼と並ぶ資格すらない。
それでも僕は、光一の前に面と向かって出ていくのは今更な気がして、自尊心の苦痛を避けてしまったんだ。
兎に角明日まで待とう、その躊躇が最悪の結果を生んでしまった。
いつも東枕で眠る僕が、その時に限って西枕を向いたのは偶然じゃなかったかもしれない。
突然の寒さを感じて目を覚ますと、いつもなら立て切ってある襖が以前の夜と同じだけ、開いていた。
だけれど其処に光一の黒い影は見あたらなくて、僕は無意識の内に部屋を覗いた。
ランプは暗く灯っているのに、布団はきちんと敷かれている。
それでも掛け布団は端の方に重なっていて、光一は僕が寝ていたのとは逆の方を向いて、突っ伏していた。
きちんと布団に入っていれば、僕はそのまま眠りに戻っていたのだけれど、彼の体はどうしても『無造作に置かれた人形』のようにしか見えない。
「光一・・・・?おい、どうかしたのか?光一?」
声を掛けても反応がない彼に、僕は立ち上がって敷居を跨いだんだ。
そうして上から眺めてみて・・・・僕は言葉すら失った。
何も考えられなくて、棒立ちのまま立ちすくんでいた。
「こ・・・・いち・・・?」
どうしてだとか、そんな筈ないだとか、次の瞬間には思うことが少なからずあったのに、口を吐いて出たのは彼の名だった。
ふらつく足取りで更に踏み込むと、机に置かれた手紙を見つけた。
弾かれたようにそれを手にし、夢中で封を開ける。
そんな状態ですら、僕は自分を忘れることが出来なかったんだ。
この手紙に何が書かれているのか酷く恐ろしくて、奥さんやお嬢さんの目に触れる前に確認しておかなければならなかった。
どんなに酷い文句が書かれていても我慢できる。
ただ信用を失うことだけは阻止しなければならない、それ程重要な問題だった。
震える手で折り畳まれた手紙を開き、文面に目を落とす。
だけど其処には、僕が予期していたことは全く書かれていなかった。
手紙の内容は至極簡単で、寧ろ抽象的だった。
少しだけ目を通して、まず助かったと思った。
本当に安心して、だけれど先を読まずにはいられなくて、最後まで視線は辿っていった。
行く先の望みがないから自殺する、僕に対してのあっさりとした礼、死後の片づけの頼み、奥さんに対しての詫び・・・・。
必要なことは一言ずつ書いてあるのに、たった一つお嬢さんの事だけは出ていなかった。
僕はすぐに、光一がわざと回避したのだと理解した。
最後の最後まで、光一は小さな蟠りさえ残そうとはしなかった。
胸が痛んだ。本当に、胸が痛かった。
『どうして今まで生きていたのか。
俺はもっと早くにこうするべきだったのに、剛に迷惑を掛けてまで、どうして・・・・・』
手紙の最後に添えられた、彼の最期の言葉。
僕はここから光一の本心を受け取った気がして、そっと手紙を握る手に力を込めた。
震える手で手紙を封筒へ戻し、皆の目の付く所へ持っていった。
「光一・・・・・・・。光一・・・・・・・」
僕は懸命に彼の名を呼んだけれど、きっと声にはなっていない。
涙さえ流さない親友を、君は軽蔑するだろうか。
振り返り、光一の流した血飛沫に触れながら、僕は彼の傍へと行く。
「僕は、本当は・・・・・・?」
最後に添えられた僕の名前。それがこんなにも。
本当のことは、もう解らないんだ。
僕らはもう、戻れない。
紅く染まった布団は、まだ温かかった。
Fin.
剛と光一。
ナマエに深いイミはありません。ええ、断じて。